まさに、華麗なる一族。
今回は、麻生太郎の妹のお話。
名前を「久子」と勘違いしている方がおられるようですが、それは同じ妹でも、いわば義理の関係。
麻生太郎と血がつながっている妹の名前は「信子」です。
「久子」というのは、高円宮妃久子のことでしょう。
つまり、別人です。
名前:寬仁親王妃信子
生年月日:1955年(昭和30年)4月9日
旦那:寬仁親王(通称:ヒゲの殿下)
学歴:聖心女子学院初等科、中等科⇒イギリスの花嫁学校ロスリンハウス・カレッジ
職歴:卒業後、松濤幼稚園の英語講師に。日本赤十字社名誉副総裁のほか、社団法人東京慈恵会総裁、財団法人日本ばら会名誉総裁と、総裁職に就いている。
皇室関係図的に言えば、コチラの通りです。
夫との馴れ初めは?
1972年(昭和47年)2月、16歳の時に寬仁親王(当時26歳)から求婚されたが、当時はまだ高校生で若すぎるということもあり、8年後の1980年(昭和55年)4月18日の皇室会議を経て婚約して、同年の11月7日に結婚した。
残念ながら、親王は、2012年6月6日に、この世を去っています。
まだ66歳と早すぎたご逝去でした。
亡くなる直前まで、公務に励まれていたということで、日本国のために最後までご尽力していただいた方です。
夫婦仲の悪さを露呈するエピソード
信子さまは、’09年10月から病院と同じ千代田区にある旧宮内庁長官公邸で、お一人で生活されている。宮内庁関係者はこう話す。
「公式的には”赤坂御用地内にある寛仁親王邸で生活されると、ストレス性ぜんそくの再発のおそれがあるから”と、説明されています。
しかし、寛仁さまご自身が、夫婦関係がよくないことを認めていらっしゃいました……。
スポンサーリンク信子さまは’04年夏から、胃潰瘍と更年期障害のご療養ということで、軽井沢の別荘で長期のご静養に入られました。
それ以来、ほぼ8年にわたり寛仁さまとは実質的に”別居生活”を送られてきたのです」
もちろん彼女らは一般人ではないのですが、同じ人間であるということには変わりはなく、我々と同じように感情があり、それには逆らえないわけで、結婚生活のギクシャクは我々とそう変わりないのかもしれません。
ただ・・・
病室でのご臨終の際も、その後のお別れの儀式でも”ご夫婦の対面”は一度も実現しなかった。
とのことですから、思った以上に関係は悪かったのでしょう。
子供は?
翌1981年(昭和56年)12月20日に長女、「彬子」女王を出産して、
1983年(昭和58年)10月25日に次女、「瑶子」女王の女子2人を出産した。
姉妹の顔がそっくりですね。
どちらかと言えば、父親に似ています。
親子関係は良い?悪い?
「彬子さまと瑶子さまは、もともと”パパっ子”でした。それが、信子さまが親王邸を出て行かれた後、ますます父娘の絆が強まっていったのです。
お嬢さまたちからすれば、”病気のお父さまを置いて、家を出てしまうなんて”というお気持ちもあったようです。
信子さまは孤独感を強め、お嬢さまたちとも距離をとるようになってしまいました」
こうなってしまっては、血がつなっているとはいえ、もはや他人のような温度差。
まだまだ両者の溝を埋めるのは難しいでしょうか。