【自称】織田信長の子孫・織田信成の家系図に疑問の声あり!?真相公開。

元フィギュアスケーターで、現在はタレントやフィギュア解説者として活躍されている織田信成さんについて。

織田さんといえば、スケートの実力はもちろんのこと、それ以上に独特なキャラクターと【自称】織田信長の子孫だということが有名です。

しかし、その織田信長の子孫だということが実はデマだったという情報が、、、

噂の真相をまとめました!

 

織田信長子孫説とは?

ことの発端は、織田さんがテレビで織田信長の末裔だということを公言したこと。

本人は嘘をつくように見えないし、名前や顔もどことなく似ていることから、織田信成さんが信長の末裔だということを疑問に思う方もいませんでした。

選手を引退した今、信成さんが信長の子孫ではないと疑問視されるようになったのは何故なんでしょうか??

 

実は信長の子孫ではない

どうやら、疑問視されているのは、織田信成さんの家系図に原因があるようですね。

まずはこちらが信長の家系図をまとめたもの↓

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ご覧の通り、織田信長は子沢山だということが知られており、歴史マニアでも現代に至る末裔までは把握しきれてないようです。

現在、織田信長の家系として有名なのがこちら↓

【丹波柏原藩】

織田信長の弟織田信包により1598年6月に柏原藩は始まります。

一時は嗣子無く廃藩となった柏原藩ですが、元禄8年の1695年4月14日に、織田信長の次男織田信雄の五男織田高長を祖とする大和宇陀藩の織田信休が、柏原に入部したことにより、柏原藩が復活します。

藩内の様々な事件により数多の取り潰し危機を乗り越え、明治4年7月14日の廃藩置県で柏原県となり、現在まで織田信長の子孫として家系図も残っている立派な家柄です。

【天童藩】

高畠から天童に移った織田信美により天保元年(1830年)に天童藩は立藩されました。

2万石の小藩ということもあり飢饉や財政難に悩みますが、様々な工夫を重ね有名な山形の紅花産業は誕生します。

苦労の末江戸時代を生き残った天童藩は、明治政府の廃藩置県により天童県となりますが、山形県に編入され現在に至ります。

家系図というのは、家柄を守る由緒正しい家系でもない限り残っていることは珍しいとのこと。

 

家系図にまつわる不可解な点とは?

織田信成さんが、信長の末裔を自称する理由の一つとして、家系図が残っていることがあります。

その家系図をテレビ番組で発表したことがことの始まり。

「ザ!世界仰天ニュース」で、中居正広が織田信成について、「織田信長の子孫」とされていることに、「怪しくない?」と疑問を呈する一幕があった。

中居は「それさ、本当なの?」と訝しげに訊いた。

これに対し、織田は「本当です」と断言。中居が「なんで本当って言い切れるの?」と食い下がると、「家系図が家にあるので」と理由を説明した。

その後、番組で家系図を披露した信成さん。

ゲストをいじることで定評のある中居さんなので、ただいじっているだけのように思われたが、、、

確かに家系図では、初代は「信長」となっており、17代目は「信成」と記載されているが、9代目から14代目の間が省略されている。

これについて、織田は、13代目の存在については、自分の父に電話して確かめたと言い、13代目に「豊春」がいたと口頭で説明。これに対し、中居が「10、11、12(代目)はいないの?」と訊くと、織田は「ちょっと戦争とかもあってわからないことが(ある)」と答えた。

それを聞いた中居は「不明なんだー」「怪しくない?」と、またも疑問を呈した。

そして、家系図の8、9代目に当たる人物の名前から「信長」の「信」という字が使われておらず15代目から「信」という字がまた使われはじめていることに着目し、「ここで(信長の子孫であると自称するため)修正しようとした」との独自の説を主張。

出演者の笑いを誘った。

中居さんは単なるいじりとして指摘したようですが、かなり痛いところをついていると思いませんか?

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ちなみに、不明とされていた10代目ですが、ウィキペディアの織田家の家系図には、織田信真と記されていました。

 

この信真は、江戸時代末期の天保13年(1842年)に江戸で生まれ、明治時代に写真家として活動されています。

ただ、以降の足取りが不明で、いつ亡くなったのかは明らかではありません。

 

家系図の問題点とは?

織田家の家系図で、最後に確認されているのが10代目である信真。

信成さんの家系図で正確に確認されているのが、信成さんの祖父である重信さん

重信さんが生まれたのは、1917年のこと。

信真の生まれた年から、ここまでの空白年数を数えてみると、75年の空白があります。

この75年の間に3代も当主が入れ替わっているのはおかしいですよね?

3代とも16歳で子供を出産している計算になります。

そこで疑ってしまうのが、この家系図自体が創作だということ、、、

 

家系図は偽物

まずこの家系図を作成したのは、父親とのこと。

織田信成さんが公開した10~13代が欠けている家系図は実は織田信成さんの父親が作成したものでした。

なぜ欠けているのかという疑問に対する答えは「親戚に迷惑がかかるから抜いた」だそうです。

この意見だと「家系図はホント」「家系図はウソ」と聞いた人の判断により別れるのも無理はない気がします。

ちなみに、お父さんは祖父の言葉を信じて家系図を作成したようですよ。

ウソだとしたら衝撃ですよね。

 

信長の子孫だと主張したのは祖父

10~13代が不明という微妙な家系図を示した織田信成さんですが、織田信長の子孫という主張は織田信成さんから始まったものではなく、歴史研究家の織田信成さんの祖父が主張したことにより始まったものでした。

情報によるとおじいさんは、かなりの歴史マニアだったようですよ。

信成さんの祖父重治さんは京都帝国大学を卒業され、三井物産株式会社に就職した後、有限会社大阪通管工業所を企業しました。

還暦以前も考古学の研究はされていましたが、以降は古墳探訪を独自に続けるなど、在野の古墳研究をされていました。

なんか胡散臭くなってきましたね^ ^;

ちなみに、以前家系図を公開し、中居さんに突っ込まれた際に、

ゲストとして出演していた政井マヤは「これだけ有名な方だから、歴史マニアの方が勝手に検証して、違ったらきっとね(指摘するだろう)」と、織田信成が「織田信長の子孫」とされていることに理解を示していた。

というフォローをされていました。

ただ、信長は子沢山で、今に至る正確な家系図を明らかにするのはマニアでも難しいと言われています。

重信さんはそこに目をつけたという可能性もあるのではないでしょうか?

あくまで推測ですが^ ^;

また、以前信成さんの母親がテレビに出演した際にこんなエピソードが↓

織田家では、明智家の家紋である桔梗をいけるのはご法度。

それを知らずに怒られたことがあるとのこと。

このエピソードに対し、

別系の織田家の当主が、家には桔梗ご法度の習慣はない。

と語っていました。

それを聞くと、ありそうですがこじつけくさい習慣にも感じませんか?

もちろん、織田家の系譜ごとに違うという可能性もあり一概にはいえませんが。

 

まとめ

織田信成さんが信長の子孫だという証拠は、

【家系図。】

【祖父から続く親の証言。】

【信成の名前や容姿が似ている。】

子孫ではないという証拠は、

【証拠である家系図の不可解な食い違い。】

【創作くさい独自の家風。】

と、子孫ではないことは断言できませんが、子孫だということもイマイチはっきりとしませんね^ ^;

ただ、事実はどうあれ織田信成さんのキャラクターの一つとして親しまれているのは確かですよね!

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